東南アジアのイスラームについて学ぶための文献案内

近年、東南アジアにおけるイスラームを俯瞰するのに有用な文献が相次いで出版されている。フィーリーとフーカーの編集によるVoices of Islam in Southeast Asia: A Contemporary Sourcebookを中心に、東南アジアのイスラームについて研究を手がける、あるいは概観を知るためには必読といえる文献のいくつかをここで紹介していきたい。同時に、近年の東南アジア・イスラーム研究の傾向も見ていきたい。

Voices of Islam in Southeast Asiaは「現代のソースブック」と副題にあるように、現代東南アジア(インドネシア、マレーシアからブルネイ、フィリピン、タイ、シンガポール、ミャンマー、カンボジア、ヴェトナムに至るまで)におけるムスリムの言説を「信仰の個人的体験」「シャリーア」「イスラーム、国家と統治」「ジェンダーと家族」「ジハード」「相互影響-グローバルとローカルのイスラーム、ムスリムと非ムスリム」という分類に沿って集積してある。言説の発言者は、研究者、政治活動家、NGO活動家、説教師、ウラマー(イスラーム法学者)、行政機関などであり、この中にはPAS(マレーシア・イスラーム党)やPKS(福祉正義党)、ヒズブッ・タフリール(イスラーム解放党)などの政党、アミン・ライス、アンワル・イブラーヒーム、MILFのサラマット議長のような政治家、アー・ギムのような大衆説教師、イスラームに関わる法令、行政機関やナフダトゥール・ウラマー、モロ青年連合のような諸組織の出したファトワー(イスラーム法解釈)、それにジャマー・イスラーミーヤ、ラスカル・ジハードなどの武力を用いる組織も含まれる。これらムスリムの言説の英訳と注釈、フンストンらによる東南アジア諸国の概説、地図、年表、語彙集、写真等から本書は成っている。東南アジアのイスラームについて研究を始めようとする者にとって、本書の意義は、フィールドにおいて流通している言説を網羅したものに英訳で容易に触れることができる、ということにある。写真等も掲載されているため、発言者たちの息吹を垣間から感じることができる。もちろん、現地語を用いたフィールドワークにおいてこそ、現代東南アジアでのイスラームの展開に接する可能性は大きく開けるが、フィールドワークを準備する段階において、本書は非常に参考となりうる。また、広大な東南アジア全域にわたってフィールドワークを行うことは多くの研究者にとって困難であり、なおかつ東南アジアにおいても国家を越えたつながりがイスラームの重要な要素であることから、フィールドワークの足の及ばない地域の情報を得るのにも本書は有用である。

同様の「ソースブック」といえる文献にリデルのIslam and the Malay-Indonesia Worldがある。リデルによる本書は、現代にかぎらず20世紀以前のマレーシア、インドネシアのムスリムによる言説が収められている。Voices of Islam in Southeast Asiaと較べて、より伝統的なイスラーム学の系譜に連なるウラマーの言説が主である。リデルによる伝統的なイスラーム学の概要の解説も収められており、伝統的なイスラーム学について理解し、それがマレー世界にどのように根づき、発展してきたか概観するのに適した文献である。

ウラマーの言説と非ウラマーのムスリムの言説、伝統的なイスラーム学の言説とVoices of Islamに収められているような多様な発言者の複合的な価値観に基づく言説とは、現代東南アジアのイスラーム理解のためにはそのいずれをも理解していく必要がある。伝統的なイスラーム学に目を配りつつ、イスラームの多様な現われを描いた文献として、例えば見市建『インドネシア-イスラーム主義のゆくえ』がある。見市は「イスラームのグローバルな論理」を踏まえつつ、テロ、政治、「ポップなイスラーム」などの現代インドネシアにおけるイスラームの多様な発現を記述している。マレーシアについて類似したアプローチをとった文献としては、ノルアニ・オスマンとフーカーの編集によるMalaysia: Islam, Society and Politicsがあり、現代マレーシアにおけるイスラームと立法、司法制度、ポップ・カルチャー、様々なレヴェルでの政治などとの関わりについての諸研究が収められている。

伝統的なイスラームの知とイスラームの多様な発現は、イスラームがそのダイナミズムゆえに多様な現象として現われているととらえるべきであろう。知の体系として、あるいは政治・経済・文化の現象として、多様に発現する東南アジアのイスラームは今や様々な角度から研究され、それら先行研究も多大に蓄積されつつある。東南アジアのイスラーム研究を手がける者のために有益な、様々な角度からの研究の現状を一冊にまとめた文献として、ナザンとムハンマド・ハーシム・カマリの編集によるIslam in Southeast Asia: Political, Social and Strategic Challenges for the 21st Centuryがある。本書は、「ポスト9月11日の政治的イスラーム」に焦点を当てており、「東南アジアにおけるイスラームの教義、歴史、成長と機構」、「東南アジア・イスラームにおける政治、統治、市民社会とジェンダー問題」、「東南アジアにおける近代化、グローバル化と『イスラーム国家』論争」、「イスラームの思想と実践に対する9月11日の衝撃」という四つのパートに分けて、各国の研究者が2001年以降の変化を考慮しつつ、東南アジアのイスラームと政治の関係の今日的展開を論考している。2001年以降の展開として本書で取り扱われている問題は、テロなどよりもむしろ、立法や市民社会論、イスラーム経済、グローバル化の影響などである。

なお、様々な角度からの東南アジアのイスラーム研究をピックアップ・抜粋して一冊にまとめた文献としては、同じくISEASから20年以上前に出されたアハマド・イブラーヒーム、シャロン・シッディーク、ヤスミン・フサインらの編集したReadings on Islam in Southeast Asiaがある。20年以上前の研究とはいえ、視点の多角的であることも本の分量も豊富であり 、特に20世紀の前半以前および19世紀の歴史研究に関して情報量が豊富であり、当時を代表している研究者らによる研究も含まれており、現在においても必読である。 20年以上前に出たReadings on Islam in Southeast Asiaと近年出されたVoices of Islam in Southeast AsiaやIslam in Southeast Asiaを比較して、イスラーム世界をも含めたグローバル化のさらなる進展により東南アジアのイスラームも政治・経済・文化、すべての面で影響を受けていること、そしてグローバル化と無縁なことではないが「テロ」とその背景が研究課題としてより多く現われるようになったことがいえるであろう。

今回とりあげた六冊の文献のうち五冊はシンガポールで出版されたものである。東南アジアのイスラーム研究において、シンガポールがひとつの主要なセンターであることがこのことからもうかがえる。